fin de siècle

読書記録

フェルドマンのカーネマン批判

読書記録:Fred Feldman(2010) "What is This Thing called Happiness?" Oxford University Press.

 

What Is This Thing Called Happiness?

What Is This Thing Called Happiness?

 

 

ちょっと気になっていたので、フレッド・フェルドマンによるカーネマンの幸福測定の批判的検討をしている第三章を要約。本当はこのあとにもうちょっとカーネマン批判のコメントが箇条書きになるのだけど、とりあえずここまで。

 

第三章 カーネマンの「客観的幸福」

3.1 カーネマンと「瞬間効用」
 カーネマンは幸福研究で絶賛活躍中の心理学者だが、幸福の中身については快楽説を採っているのか選好説を採っているのか微妙なところがある。それはあとで見るとして、この章で検討するのは彼の「客観的幸福Objective Happiness」という論文だ。これが彼の最終見解であると言うつもりはないが、幸福の本性についての注目すべきアプローチが展開されている。カーネマンは幸福の「ボトムアップ」概念を提示している。これは、「幸福の原子」を測定して、それに数学的な操作を加える事で、一定期間の、あるいは人生全体の幸福度を求めようとするものだ。その際に原子となるものを、カーネマンは「瞬間効用 instant utility」と呼ぶ。そして、ある一定期間の幸福は瞬間効用の時間積分によって定義される。例えば、ヘレンが3月にどれぐらい幸福だったのかを知ろうとするなら、3月中の彼女の全ての瞬間効用を測定してその時間積分をとればよい。では、瞬間効用はどうやって測定するのか?
 カーネマンは瞬間効用の測定手法を「GB測定Good/Bad Dimension」と呼んでいる。おそらくカーネマンがこの測定で測ろうとしているものは、「ある人物の純粋に主観的な経験の瞬間的な断面 instantaneous slices of one person’s purely subjective experience」である。これは例えばこうやって測る。ヘレンはブザーが鳴る腕時計のような装置を身につける。ブザーが鳴った時、その瞬間の経験を善いとも悪いとも感じていなければゼロを記録する。善いと感じていれば正の数値を、悪いと感じていれば負の数値を記録する。こうやって時間ごとのGB値を測定し、それを集計することでその期間中の幸福の値を求めることが出来る。
 カーネマンはこのGB測定が「客観的」だと言う。「どこが客観的やねん、主観的経験の一人称的な報告やんけ」と首を傾げる哲学者も多いだろうが、カーネマンが言いたいのは、経験の事後的な評価は容易に誤りうるということだ。もっと言えば、人々の事後的な幸福評価はピーク時とエンド時で非常に大きく歪曲する。よってカーネマンは、時間による歪曲を回避するためにリアルタイムのGB測定が必要だと考えていて、それゆえこれを「客観的」だと言っている。
 カーネマンが言っていることはもっともなのだけれど、リアルタイム評価もまた同じように誤るものだということは覚えておこう(主観的評価が不可能だと言っているわけではない)。また、GB(善/悪)という基準も単純すぎるかもしれない。善さ(goodness)には道徳的、美的、快楽的、知的など、非常に多くの種類があるからだ。さらに、ヘレンの瞬間的経験の価値はその快さと苦痛さ(pleasurableness or painfulness)によって決まるということにも気をつけておきたい。カーネマン自身、「効用」という言葉をベンサムから借りたと言っており、客観的幸福で彼が意味しているものは感覚的快楽説に近いように見える。
 しかしカーネマンは、「現在の経験の快楽主義的性質はもちろん第一歩であって、これは未だ十分とはいえない」とも言っており、自身では幸福の快楽説を採っていないと明言している。例えば瞬間効用に含まれる他のファクターに「気分mood」がある。これは、その時の経験が「促進したいと思うもの」なのか、「妨げたいと思うもの」なのかという基準だ。こう考えると、カーネマンの幸福理論は多元主義のようにも見える。しかし、例えば6つや8つの要素をバラバラに測定するのは快楽説以上に問題含みだし、カーネマンはやはり単一ファクターとしての測定を考えているようだ。
 カーネマンが様々な文献で言っていることを勘案すると、彼がGB測定で測ろうとしているものは「現在の経験が持続してほしいという欲求の強さ strength of desire for the present experience to continue」だと解釈するのが最も適切だと思われる。彼は「瞬間効用の最も正しい理解は、現在の経験を持続させたい、あるいは妨げたいという傾向性の強さである」とも言っている。そうすると、幸福はこのように定義された瞬間効用から説明されるため、彼の理論は幸福の選好主義の一種だと言える。

3.2 客観的幸福の理論
 カーネマンの理論の基礎についてはこんなところだろう。要約するとこんな感じになる。ある人の瞬間効用はGB測定における位置である。瞬間効用は幸福の原子である。瞬間効用は経験を持続させたい/させたくないという欲求の強さである。
 カーネマンは客観的幸福をある一定期間中の全ての瞬間効用の時間積分として定義している。大雑把に言えば、ある人がある期間にどれだけ幸福だったのかを測定するためには、その人が自分の経験をどれだけ強く持続させたいと欲求していたのかを測ればいいということだ。

3.3 客観的幸福の意図された役割
 だが、こうした文献でカーネマンが「幸福 happiness」という言葉を普通の意味で使っているとは考えにくい。というか「幸福」は、多義的で曖昧で、様々な人々がそれぞれの使い方で使っている言葉だ。むしろカーネマンは、「幸福」が多義的であることこそが、これまで幸福研究が進展しなかった理由だと考えているようだ。様々な日常的な意味の幸福をそれぞれに測定しようとしても、その数値の比較には意味がない。カーネマンがやろうとしていることは、日常的用法よりも多義性と曖昧さが少ない、そして測定可能な、新たな「幸福」概念を導入することだと言っていい。もしそうであれば、〔日常的用法から〕様々な反例を挙げてカーネマンを批判しても的外れだ。
 だがこの規約的定義(stipulative definition)が誤っていると訴えることは出来る。例えば、その概念が意図されている仕事をきちんと果たすことが出来るものなのかを考えることは重要だ。つまり幸福の測定である。また、幸福測定によって意図されているのは、公共政策、とくに福祉(welfare)の問題の解決である。ある人の客観的幸福はその人の福祉の度合いに相当するものでなければならない。また、どれだけ規約的定義だと言い張っても、あまりに我々の日常的な幸福概念とかけ離れているものであってはまずい。
 よってカーネマンの理論は少なくとも三つの基準から評価できる。(a)それは実践的なのか?つまり、本当に測定の役に立つ概念なのか?(b)客観的幸福の概念は、福祉の概念にうまく関連付けられるのか?(c)常識心理学での幸福概念の解明explicationになっているのか?

3.4 カーネマン理論に伴う問題
 カーネマンの理論は本当に客観的幸福の「基礎」を提供できているのか怪しい。次の例を考えてみよう。あるとき、ヘレンはカリフォルニアに住んでいることに大きな喜びを感じていたけれど、同時に交通渋滞に巻き込まれていることに大きな不快を感じていた。彼女はカーラジオで音楽を楽しんでいたが、同時に隣の車のクラクションに苛立っていた。加えて、長い一日の仕事を終えて疲れ果て空腹だった一方で、その仕事の成果に満足したいたとしよう。そのとき、オンラインの記録装置が鳴って、ヘレンが「その瞬間にしている経験」を記録したとする。彼女はその時の経験を持続させたいという欲求の強さを数値にして記録しなければならない。
 ここで問題になるのは、「彼女がしている経験」がいったい何なのか不明瞭だということだ。どんな人でも、ある瞬間には多くの経験を同時にしている。カリフォルニアに住んでいることと渋滞に巻き込まれていることと音楽を聴いていることとクラクションに悩んでいることと空腹であることと仕事に満足していることは同時に経験されている。もしヘレンがその瞬間のGB値として単一の数値を見出したとしても、それはその瞬間の雑多な経験に対する瞬間効用を合算したものである。ゆえに彼女のGB値は幸福の「原子」にはなりえない。どちらかといえば、GB値は複雑な「分子」の構造をしている
 ここでカーネマンの理論を修正して、GB測定で求められるものは、様々な「原子的」経験の総計であると考えてみよう。例えばヘレンは隣の車のクラクションを聴きながらエアコンの冷たい風を感じていたとしよう。ヘレンはクラクションを止めたいと欲していて、同時にクーラーの冷気を感じ続けたいと欲している。このそれぞれが原子的経験だと言える。ここでカーネマンの中心的アイデアを使おう。GB測定における原子的経験の位置は経験者の経験を続けたいという内在的欲求によって決まる。よって、ヘレンの交通渋滞の事例だと、いくつかの経験については持続させたいと欲し、いくつかの経験については止めたいと欲していることになる。
 原子的経験をE、人物をS、その時間をtとして、Sがt時にEを経験するとき、Sにとってのt時におけるEの継続価値(continuation value)をCV(E, S, t)としてこれを定式化しよう。ある人がある経験を続けたいと欲している時、継続価値は正となり、その反対なら負となる。こうして瞬間効用の概念を再定義するとこうなる。

  • ある時tにおけるある人Sにとっての瞬間効用=Sがt時におこなっている全ての原子的経験Eにとって、CV(E,S,t)の合計


この瞬間効用によって、ある人のある一定期間の客観的幸福を求めることが出来る。
 これはカーネマンの理論に似てはいるが異なるものだ。ここには二重の合算がある。第一に、原子的経験の継続価値を瞬間効用へとまとめる合算であり、第二に、瞬間効用を一定期間の客観的幸福へとまとめる合算である。カーネマンの理論には後者の合算しかない。しかし、幸福の「ボトムアップ」概念としてはカーネマンの理論と似ている。つまり、ある一定期間の幸福を瞬間的な幸福の合算によって決めるという点は同様だし、カーネマンの言うところの「客観的」だというところも同じだ。そして交通渋滞の問題も解決できる。
 だが、このように定義してみると、カーネマンの理論からある重要な要素が欠落してしまう。つまり、「実践的有用性」である。カーネマン自身の理論だと、瞬間効用を測定するために被験者はその瞬間ごとに数値を入力すればよかっただけだが、この理論だと、被験者はまずその瞬間における幾多の個々の原子経験の持続価値を同時に求めなければいけない。そんなことは普通の人間には無理である。
 さらに、ここまでくると我々の日常的な幸福概念とこの客観的幸福概念のズレは著しいものとなる。これは変化によって成長したいと思っている人を考えれば明白となる。常に変化を求める人もいる。こうした人々は、同じ経験が変化せずに続いてしまえば飽きてしまう。幸福には、経験の継続だけではなく、経験の変化という種類もあるのだ。
 極端な例を考えてみよう。ブレットはドラッグレースの参加者で、彼はレースをとても楽しんでいる。発進して可能な限り加速しているという経験によってブレットは幸福だ。ブレットがトラックの10分の1の距離にいるとき、彼は10分の1の距離にまで来たことと、時速30マイルで走っている経験に幸福を感じている。ここにはスピードメーターやタコメーターを見たときの視覚経験も含まれるし、排気音を聴く聴覚経験も含まれる。だが彼はこういった経験を可能な限り続けたいなどという欲求は持っていない。むしろ、このパートを一刻も早く終わらせ、すぐさま10分の2の距離まで進みたいと、もっと速く走りたいと欲求している。どの瞬間を切り取っても、彼は現在の経験を終わらせたいと欲求している。しかし、ゴールした後にブレットは「どの瞬間もサイコーに幸せだったよ」と言う。だがレース中のGB測定を考えてみよう。たしかにブレットが持続させたいと欲している経験もある。だがその他多くの「すぐにでも終わらせたい」経験がそこにある。もしブレットの経験をゴールへ進む経験のみに集中させてしまうと、多くの原子経験が無視されてしまう。
 他にも出産の最中の女性を考えてもいいだろう。激しい苦痛に苛まれている最中に彼女は「“母”になるという人生の中でも得難い幸福な瞬間」だと言うだろうが、その経験をもっと継続させたいなどとは欲求しない。
 これらの事例が示しているのは、「ある一定期間の幸福」「ある一定期間に経験していることを続けたいという欲求」との間には概念的な繋がりは存在しないということだ。ブレットはトラックを走り抜けることに幸福を感じているが、どの瞬間の経験も続けようとは欲していない。新たな母は赤ちゃんが生まれることに幸福を感じているが、彼女も出産の経験を継続したいとは欲していない。
 こういったことから、おそらくカーネマンの方法は、幸福とは何かを考える上であまり役に立つものだとは思えない。