fin de siècle

読書記録

価値のbuck-passing account とは何か その2

 

What We Owe to Each Other

What We Owe to Each Other

 

 

スキャンロンによる価値のbuck-passing account [BPA]の特徴は次の二点にある。

  • 価値や善さは理由を与える性質ではない。
  • 何かが善いとか価値あると言うことは、その何かが理由を与える他の性質を備えていると言うことだ。つまり善さや価値は「理由を与える性質を備えているという性質」だ。

たとえば(1)「行楽地は快楽を与える」(2)「行楽地は善い」、(3)「われわれは行楽地に行くべきだ(行楽地はわれわれにそこに行くための理由を与える)」という三つの命題を考えてみよう。一つ目の命題は自然的性質についての命題。二つ目の命題は価値についての命題。そして三つ目は規範性についての命題だ。この三つの命題の関係を考えるとき、ムア的な説明とスキャンロン的なBPAは、それぞれ次のような説明をおこなう。

  • ムア主義:行楽地は快楽を与えるということは、われわれに何をする理由も与えない。だが、行楽地の善さがそこに行くための理由をわれわれに与える。つまり、行楽地は善いものだから、われわれはそこに行くべきだ
  • BPA:行楽地の善さは、行楽地がわれわれに理由を与える性質を備えているということだ。行楽地に備わっている性質は、快楽を与えるという性質だ。したがって快楽は理由を与える性質である。つまり、行楽地に備わっている快楽という性質がわれわれに理由を与えるから、われわれはそこに行くべきだ

このようにBPAでは、善さは「われわれに理由を与える性質が何にあるのかを説明する高次の性質」ということになる。善さそのものは理由を与えない。このようにして、価値から「規範性の説明責任」を剥ぎとって、その「責任」を、理由を与える他の性質に「転嫁する」という意味で、この説明は責任転嫁 (buck-passing) 説明と呼ばれる。

 スキャンロンがBPAを支持する理由はいくつかあるが、二つ挙げておきたい。一つは、われわれが何かに応答する理由があると考えるとき、われわれはそれが「善さ」を備えているために応答すべきだと考えているのではなく、それが「善さではない何か他の性質」を備えているために応答すべきだと考えていることだ。たとえば行楽地に行くべきだと考えているとき、「なぜ行楽地に行くべきだと思うの?」と聞かれれば「だって楽しいだろ?(行けば快楽を得られるからだ)」と答えるはずだ。この流れの中で、「善さ」や「価値」を持ち出す必要はない。

 二つ目は、われわれはいろんなものを「善い」と呼ぶが、善さに応答する仕方はそれぞれのもので大きく異なっていることだ。たとえば「行楽地は善い」と考えるなら「そこに行くべきだ」という応答が求められるが、「この証拠は善い」と考えるなら「それを信じるべきだ」という応答が求められる。応答の仕方は多種多様なのに、その応答の理由はただ一つの「善さ」に帰着するというのは奇妙なことだ。むしろ、「行楽地は快楽を与える」や「証拠は確実だ」といった個々の多様な性質こそが、そうした応答の多様性を説明しているように見える。よって、「これは善い」と言うことは、単に「これに備わっている何かの性質がわれわれに何かする理由を与えるのだ」と言っているだけではないかと考えたほうが良さそうな感じがある。

 

Reasons and the Good

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このBPAが価値の妥当な説明になっているのか否かについて多くの論争が起こっているのだけど、ロジャー・クリスプは『理由と善 Reasons and the GoodでBPAに対して明確に反対の立場をとっている。そこで彼の論点も少し見ておきたい。

 

 クリスプは、スキャンロンがBPAを提出した際の根拠を「冗長性論証 redundancy argument」と名付けている。つまり、理由を説明する際に、「価値」を持ち出すことは冗長だという論証だ。これは以下のようになっている。

  1. 「行楽地は快楽を与えるからわれわれはそこに行くべきだ」という主張は、どの性質がわれわれに何をするための理由を与えているのかを明確に述べており、理由の完全な説明になっている。
  2. 「行楽地は善いからわれわれはそこに行くべきだ」という主張は、その行楽地がどの点で善いのかが不明瞭であり、なぜそこに行くべきなのかを説明しきれておらず、不十分である。
  3. 「快楽は快楽を与えるから善い。快楽は善いからわれわれはそこに行くべきだ。」と主張すれば完全な説明になるが、これは1で言っていることと同じである。
  4. したがって、理由の説明の中では「善さ」の概念は冗長である。
  5. したがって、「善さ」はわれわれに理由を与えるものではない。

こうしてみると、たしかに何をすべきかを考えるときに、「価値」や「善さ」がどのような働きをしているのか不明瞭で、そんなものを持ち出すのは単に議論を冗長にしているだけにも見える。

 

 しかしここでクリスプは次のような例を出す。「信念を抱いている」という心的性質が存在する。この性質は、脳神経の状態などの物理的性質や、「しかじかの心理状態にある」といった他の個別の心的性質との関連で説明される。この低次の性質は相当に多様であるため、その意味で「信念を抱いている」という心的性質は多様な現れ方をしていることの説明がつく。だが「ある人が信念Xを抱いている」という状況には、「ある人には信念Xを抱いているという心的性質を実現するための下層の性質があるという高次の性質」もある。

 このとき、「信念を抱くための性質を持っているという性質」という高次の性質について、誰が関心を払うだろうか。クリスプは、そうした高次の性質について考えようとする動機はなくなってしまうと主張する。そして、この説明は価値についても当てはまる。もし理由の説明が善さの概念なしで完全に行われるようなものであれば、誰も善さの概念に注意を払わないだろう。それでは、われわれは規範性の説明から「善さ」を完全に消し去った方がよいのだろうか?

 否、とクリスプは答える。単なる善さではなく、「誰かにとっての善さ」に訴えるなら、問題はより明白になる。クリスプは次のような例を出す。

「私が疲れ果てており、すぐさま休日を必要としていると想定しよう。すると、私が行楽地に旅行に行こうと決定するのは、そこが私にとって善いだろう場所だからである。ムア主義者の主張では、旅行が我々にとって善いという事実が、私がそこに行くための理由の完全な説明をもたらす。そして下層のレベルで「理由込みの特殊な性質によっておこなわれうるだろうさらなる働きが何なのかは不明瞭である」。それが善いだろうという事実を根拠にして行楽地に滞在しなければならないという理由に、それが快いということを加える必要はない。」RG p. 65.

 

つまり、理由の説明は、ムア的な「善さが理由をもたらす」という説明であっても、BPAの「善さは理由をもたらさない」という説明であっても、どちらが完全な説明になり、どちらかが不完全な説明になるのかは場合による。スキャンロンの議論では、善さと他の性質のどちらが「冗長な性質」なのかを決めることは出来ないというのがクリスプの批判だ。

 

 ムア的な説明も、スキャンロンのBPAも、完全な説明になることもあれば不十分な説明にしかならない場合もある。しかし、BPAのように規範性の「説明責任」を他の性質に「転嫁」しようとすること自体には、さらなる問題が含まれている。

「スキャンロンの見解では、滞在するため私の理由について完全な説明をもたらすものは、行楽地が快楽を与えるということである。だが、快楽には多くの種類があり、どの種類の快楽が、私がそこで得たいとしている快楽なのかと問う人もいるだろう。私の計画は、午前は遊園地に行って、午後はビーチでごろごろする、というものなので、私の休日は二種類の快楽から成っている。つまり高揚感とリラックスである。だが、もしわれわれが責任転嫁 (buck-passing) に与すると、快さという性質によって行われるとされた規範的な働きが何なのかを尋ねられ、その説明責任 (the buck) は高揚していることやリラックスしていることに転嫁される。ここではどの説明でも、性質の個別化についての問題が生じてしまう。」RG. p. 66. 

つまり、もし「この場合に理由を与える性質は快楽だ」と言ってしまえば、「どの快楽が理由を与えるのか」と問うことができるため、さらなる説明が求められる。もし「高揚感が理由を与える」と言ってしまえば、「どの高揚感だ?」とさらに尋ねられる。すると、「スリルが理由を与えるのだ」とか「脳内のエンドルフィンの分泌がね」とかいろいろ答えを探すはめになる。

 つまり、理由を与えるという規範性を善さから別の性質に移す「責任転嫁説明」を認めてしまうと、その性質からさらに別の性質へ、そしてそこからさらに別の性質へ……というふうに、責任がたらい回しにされてしまうことになる。さらに、理由を与える性質を細かく分けると、そのうちの一つだけが理由をもたらすのではなく、快楽は「高揚感とリラックス」になり、高揚感はスリルやエンドルフィンの分泌に、リラックスもまた細かい低次の性質に…という形になり、膨大な数の理由を与える性質が登場することになる。すると、「善い」といえば一言で済むのことについて、高揚感とリラックスとスリルとエンドルフィン云々と細かく理由を与える性質を挙げるはめになる。それこそ冗長というものだ。そしてどこでそのたらい回しを止めるのかについて、スキャンロンは説明できない。

 こう考えてみると、価値のbuck-passing accountはあまりうまくいってないのではないかという気もしてくる。