fin de siècle

読書記録

ErkenntnistheorieとEpistemologyと認識論についての大雑把な歴史

リチャード・ローティは『哲学と自然の鏡』の中で、「認識論(Erkenntnistheorie)」の起源について次のようなことを言って、その系譜をうまくまとめている。


「カントの崇拝者たちの最初の世代は「カントが行ったこと」を言い表す便利な標語として理性批判(Vernunftkritik)という言葉を使った。認識論(ErkenntnislehreおよびErkenntnistheorie)という言葉が作られたのは少しあとになってからのことである(それぞれ一八〇八年と一八三二年)。しかし、そのときまでに「哲学の他の諸学に対する関係はどのようなものか」という問題は、ヘーゲルと観念論的な体系構築が介入してきたことによって、すでに曖昧なものになってしまっていた。ヘーゲル主義は、他の諸学を*基礎づける*というよりは、むしろ何らかの仕方でそれらを完成させ、かつ飲み込んでしまうような学としての哲学というイメージを作り上げた。また哲学を、本来の目的であるためにはあまりにも一般的すぎ、興味深すぎ、重要すぎるものにしてしまった。ヘーゲル主義は哲学の教授に対して、単に自分の「専門領域(Fach)」に携わるというのではなくて、むしろ「世界精神」を体現するよう要求したのである。ツェラーの論文――マウトナーによれば、それによって「初めて〈認識論〉という述語が現在もっているようなアカデミックな権威を与えられた」のであるが――は次のような言葉で終わっている。すなわち、我々自身の精神からすべての学を紡ぎだすことができると信じている人々は、ヘーゲルとともにそう信じつづけるのもよかろう。しかし正常な頭をもった者ならば、哲学の本来の仕事が(ひとたび物自体の観念が、そして観念論の誘惑がしりぞけられるならば)さまざまな経験科学においてなされる知識請求の客観性を確立することであるということを認めなければならないはずだ、と。そしてこの客観性は、知覚のうちに持ち込まれるア・プリオリな寄与の妥当性によって確立されるのである。こうして〈認識論〉は一八六二年には「観念論」と「思弁」の双方から脱出する道として登場してくる。」訳書141-2頁


ローティが依拠しているのはファイヒンガーの一八七六年の論文「『認識論』という言葉の起源について(Uber den Ursprung des Wortes "Erkenntnisstheorie.")」(これはオンラインで読める)だけど、かいつまんで言うと、十九世紀初頭、「認識論」という言葉はラインホルトらによって「カント的な理性批判」を指す言葉として使われ始めた(ローティがErkenntnistheorieの最初の用例として持ち出している一八三二年はラインホルトの著書の刊行年だけど、そこでラインホルトは「Theorie der Erkenntnis」という言葉を使い始めた。あとErkenntnislehreはもっと早く一八〇八年だそうだけど、ファイヒンガーによれば、これは単に「形而上学」の同義語だったらしい)。この「認識論」は、いったんはヘーゲル主義の潮流に巻き込まれて下火になった。しかし一八六〇年代より新カント派の勃興によって再び英気を取り戻し、初期新カント派(「カントに帰れ!」世代)のエドゥアルド・ツェラーの論文「認識論の意義と課題(Bedeutung und Aufgabe der Erkenntnistheorie)」(一八六二年)によって、哲学の最重要任務は「諸学の基礎づけ」やぞ!と脚光を浴びるようになったと。

さて、この新カント派年代記の流れの中にいわゆるEpistemologyがどう絡んでいたのかというと、実はまったく絡んでいない。「知識の理論(Theory of Knowledge)」としてのEpistemologyの登場は、このドイツの流れとはまったく別のところで始まった。

それは何処かというと、海峡の向こうのスコットランド。同十九世紀中盤のスコットランドでは、トマス・リードに端を発する「常識学派」が消滅しかけていたわけだが、その最後期の哲学者にジェームズ・フレデリック・フェリア(J. F. Ferrier 1808-64)という人物がいる。彼はEpistemologyという言葉を作ったということのみで知られているかわいそうな人なのだけど、Epistemologyという語が初めて登場したのは1854年に公刊された彼の著書『形而上学概論:知と存在の理論(Institutes of Metaphysic the Theory of Knowing and Being)』において。フェリアはこの著書でだいたいこんな感じでエピステーモロジーを定義している。

「*あらゆる*知ることや*あらゆる*考えることについての法則である必然的法則と、*我々が*知ることや*我々が*考えることについての法則である偶然的法則を配置し、知ることと知られたものの双方の法則を――換言すれば理解可能なものの条件を、探求し説明するのがこの部門である。この分野の学問に固有の名を付けるとすればエピステーモロジーである――ちょうどオントロジー〔存在論〕が、存在することの学説ないし理論であるように、これは知ることの学説ないし理論である(logos tis epistimis――真なる知の学)。エピステーモロジーは「知ることとは何であり、知られたものとは何なのか?」――端的に言えば、「知識とは何なのか?」という一般的な問いに応える学問である。この学問が十全に明示化されるまでは、オントロジーには到達出来ない、いや検討すらできない。よって、これらは我々の学問の二大部門である。「何を知りうるのか」を確証するまで――換言すれば、徹底的で体系的なエピステーモロジーの全ての詳細を討究しつくすまで、我々は「何が存在するのか」を明らかにすることは出来ない――換言すれば、オントロジーに足を踏み入れることは出来ない。」 Ferrier (1857) pp. 48-9.



より正確に言えば、「何を知りうるのか」を問うエピステーモロジーと「何を知りえないのか」を問うAgnoiology(無知論)が対になっており、双方が「結局、何が存在するのか」を問うオントロジーの予備学にならなければならない、というのがフェリアの主張だったわけです。

もちろんフェリアはカントの影響を受けており、この著作にもカントは何度も出てくるので、ドイツの流れとまったく無関係というわけではない。けれども、ErkenntnistheorieとEpistemologyは、その出処はまったく別。ドイツでも、Erkenntnistheorieのほぼ同義語としてWissenschaftlehreだのWissenschafttheorieだのnoeticsだの、先に挙がっていたErkenntnislehreだのが競合していたのだけど、だいたいツェラーのおかげでこの天下一認識論武道会を勝ち残ったのはErkenntnistheorieだった。そうこうしているうちに、このErkenntnistheorieはEpstemologyに対応するドイツ語の翻訳語としても使われるようになっていって、両者の垣根は今やほぼ消滅した。

その頃東の果ての日本では。明治中盤以降、日本の哲学業界は現代哲学をドイツから、特に新カント派を通じて輸入していた面が多分にあり(だいたい井上哲次郎のせい)、スコットランド生まれのEpistemologyも、非常に新カント派的な性格を帯びた「認識論」という言葉として日本語に定着したというのがおおまかな流れだと思われる。EpistemologyからErkenntnistheorieへ。Erkenntnistheorieから「認識論」へ。というこの翻訳の経緯や契機については全くの臆測で調べていないので(たとえば近代デジタルライブラリーで「認識論」と検索すると当時の哲学の教科書やら何やらがわんさか出てくる)、お好きな方は調べてみてください。

 

哲学と自然の鏡

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