fin de siècle

読書記録

価値のbuck-passing account とは何か その1

 

What We Owe to Each Other

What We Owe to Each Other

 

 

ここ十年ぐらいのメタ倫理学では、「善さ」や「価値」ではなく、「理由」という概念こそがprimitiveなものなのだとされて、理由をベースにして規範性を説明しようとする流れがかなり広まっていると思う(特にイギリスで)。典型的にはダンシーの『原理なき倫理 Ethics without Principles』は理由を中心に考えることで原理中心の「一般主義」を拒絶しようとするものだし、パーフィットの『重要なことについて On What Matters』(2010年)や、スコラプスキの『理由の領域 Domain of Reasons』(2011年)は、この理由ベースの規範性の説明を大々的に展開したものすごい本だ(サイズ的な意味で)。

 こうした「理由」への注目を促した要因は、もちろんウィリアムズやコースガードが理由を中心に据えた議論を行って、ダンシーなんかもそもそも90年代から「道徳的理由」についての本を出していたからというのもあるけれど、少なくとも21世紀の盛り上がりについていえば、スキャンロンによる 価値のbuck-passing acount [責任転嫁説明、通称BPA] の影響があるように見える。少なくともパーフィットとスコラプスキに関しては間違いないと思う。

 

じゃあ価値のbuck-passing accountって何ぞ?というとこれが結構分かりにくい。そもそも日本語で読める文献もほぼ皆無だと思う。責任転嫁 (buck-pusssing) とは言うものの、いったい何がどうやって何に転嫁されているという説明なのか。まずはスキャンロン自身がどう説明しているのか見てみよう。彼は『われわれがお互いにすべきこと What We Owe To Each Otherで、価値について次のような説明を行っている。

 

……価値があるということは、われわれに理由をもたらす性質ではないという主張である。むしろ、何かを価値がある(valuable)と呼ぶことは、それに対して特定の仕方で振る舞うための理由をもたらす他の性質を備えていると言うことである。わたしはこれを、ムアによる「善」についての開かれた問い論法を反省することで、価値の「責任転嫁 buck-passing 」説明と呼びたい。(WWO. p. 96: 強調引用者)

  

要するに、buck-passing accountというのは「価値」を「理由」によって説明することなわけだけど、彼の議論をもう少し追っていきたい。

 価値のbuck-passing accountとは、簡単にいえば、G・E・ムアが『倫理学原理 Principia Ethica』でおこなった「開かれた問い論法 Open Question Argument」を、さらにもう一段階重ねたものだと言っていいと思う。よく知られている通り、ムアは「自然的性質」と「善さ」を定義によって同一視することは不可能であるとして、例えば「xは快い」という(自然的性質についての)判断と「xは善い」という(価値についての)判断の同一視を拒絶した。なぜなら、もし「快い」という自然的性質と「善さ」が定義によって同一のものであるとされたなら、「xは快い、だがxは善いものだろうか?」という問いは聞くだけ無駄なトリヴィアルな問いかけとなってしまうが、「xは快い、だがxは善いものだろうか?」という疑問は、何か実質的な問いかけを行っているように見えるからだ。つまりここでは問いが「開かれている open」。だから自然的性質と善さ(価値)を同一視することは出来ない。「xは快楽だから善いんだ」なんて言ってるやつは自然主義的誤謬を犯してる。かなりざっくりとした説明になるけど、だいたいこれがムアが言っていることだと思う。

 それでは、価値のbuck-passing acountとはどういうものか。それは、「xは善い」という価値判断と「われわれには特定の仕方でxに応答するための理由がある(われわれはxを欲するべきだ、等)」という規範的判断もまた同一ではなく、開かれているのだという説明のことだ。

 たとえば、「行楽地に遊びに行くことは自分に快楽を与えるから、行楽地に遊びに行くことは善いことだ」という価値判断を考えてみよう。ここでは、「快楽」と「善さ」が同一視されているので、自然的性質により善さが定義されている(ムアの意味で)ということになる。それゆえ、ムアはこれを自然主義的誤謬だと言うかもしれない。だけど、「行楽地に遊びに行くことは善いことだから、今度の休日にはそこに行くべきだ(あるいは、われわれにはそこに行くための理由がある)」という判断ならどうだろうか。おそらく、ムアならここには自然主義的誤謬はないだろうと言うはずだ。ムアに言及しなくても、どういう仕方で振る舞うのが適切かという問題をさておけば、何かが善いと思われるときに、その善いものを「欲求する、推奨する、行う」等々の肯定的な仕方で応答することはきわめてあたりまえのことのように思われる。

 だがスキャンロンは、ここにもやはり開かれた問いがあると主張する。「xは善い」という判断と、「われわれにはxに云々の仕方で応答するための理由がある」という判断は等価ではない。なぜなら、「xは善い、だがわれわれはxに云々の仕方で応答すべきだろうか?」という疑問もまた、どのxについても実質的に成り立つように見えるからだ。ということは、「xは善い」と言うだけでは、われわれが云々の仕方でそれに応答するべきだという規範的な判断は正当化されていないことになる。したがって、「~するべきだ」というような規範的判断について考えるためには、「自然的性質」「価値(善さ)」について考えるだけではだめで、そこに「われわれに特定の仕方で応答するための理由(われわれは特定の仕方で応答するべきだ)を与えるという性質」も加えて、この三つの項の関係を考えなければならない、というのがスキャンロンの立てた枠組みとなる。

 

それでは、「自然的性質」と「価値」と「理由」の関係はどうなっているのだろうか?元々のムアの見立てでは、「価値」は「それに応答するための理由がある」という性質でもあるため、価値と理由の間には問いが開かれていない。だから、直観に従って何かに価値があると言うだけで、その何かの規範性を説明できたことになる。しかし、スキャンロンにはこれを否定する。価値は理由を与えないのだ!

 だったら「価値」っていったい何なのさ?という話になるが、それについてスキャンロンは、価値とは「理由をもたらす性質を持っているという性質」という「二階の性質」なのだと論じる。ややこしいが、つまり、価値そのものはわれわれが応答するための理由を構成する要素ではない(ムアはそう思っていたっぽいが)。スキャンロンによれば、「xは善い」や「xには価値がある」と言うことは、単に「xは云々の仕方でそれに応答するための理由をわれわれに与える他の性質を持っている」と言うことである。つまり「自然的性質」と「価値」が異なる性質であるように、「価値」と「理由を与える性質」もまた異なる性質なのだというわけだ。すると

  • xは善い

  • xはわれわれに云々のことをするための理由を与える

が等価になるため、

  • 善いものはわれわれに云々のことをするための理由を与える

言う必要はなくなる

 すると、「xは善い」という判断にあるとされていた規範性の説明責任は、善さではない他の性質に転嫁される。これがbuck-passingがbuck-passingである所以。そのため、「善さ」という性質は「形式的な二階の性質」だという意味では「非自然的性質」であるものの、規範的か否かという点では、規範的ではない性質だということになる。本当に規範的なのは、善さではなく理由なのだ、というのが彼の結論となる。したがって、

 

私はもう一つの選択肢が正しいと信じている。これは、善いとか価値あるということそれ自体は、ある物事に特定の仕方で応答するための理由をもたらす性質ではないとするものである。むしろ、善いとか価値あるということは、そうした理由を構成している他の性質を備えているということである。なんらかの性質が理由を構成するという主張は規範的主張であるため、この説明は善さや価値を非自然的性質に、つまり、関連する種類の理由をもたらすという低次の性質を備えているという、純粋に形式的な高次の性質にするのである。最初の選択肢〔価値が理由を与えるというムアのやつ〕との違いは、理由をもたらすものは善さや価値そのものではなく、むしろ他の性質がそうするのだと主張している点である。この理由により、私はこれをbuck-passing acountと呼ぶ。(WWO. p. 97: 強調引用者)

 

こんな感じで、価値のbuck-passing accountとは、規範性を「善さ」からもぎとって、説明の中心を「理由」に移す説明だと言っていいのではないかと思う。パーフィットはこの説明に対して『重要なことについて』で批判しているけれど、それについてはまた別のお話。